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日本各地の「壇ノ浦の戦い後の平家に関連した屋敷」
壇ノ浦の戦い後で平家に関連した屋敷は、京都から離れた地方に残っています。平安時代の貴族社会と武家による封建社会との境目にあって、源氏との戦いに敗れ京都から離れて、いくつかの地方に移り住んだ平家・・・。最初は山奥や辺鄙な地域で、密かに生活を送っていたことでしょう。そして時代が進むにつれて、各地方にも栄枯盛衰があり、平家一族は文化や統治能力が認められ、次第に伝統ある都の文明・分化も伝えるようになって行ったと思われます。平家一族は、文化の一面としての薬草学や医学を含む学問も広めるようになっています。そのいくつかを紹介します。
「鶴富屋敷」は宮崎の奥まった山間地の椎葉にあって、平家の末裔である鶴富姫と源氏の武士那須大八郎の悲恋伝説の舞台として有名。秘境にありながら横一列に部屋が配置された建物は力強く、座敷は寝殿造りの形態を残しています。
熊本の五家荘にある「緒方家」は、平清盛の孫である平清経が姓を緒方と改名して、この地に隠れ住んだと云われています。その後、代々の緒方家がこの地を支配し、文化も伝えて来たとのこと。実際、緒方家の座敷は寝殿造りで、床の間にある琵琶が往時を語っていました。
徳島の西祖谷にある「平家屋敷」は、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したのち、天皇の御典医であつた医師が、残党とともに祖谷に落ちのびた所といわれています。そして祖谷の山野には薬草が豊富であること知り、医業を諸民に施こしたとのこと。その後、子孫は伝統を守り、現在は平家ゆかりの多くの品々や古文書、民具などを展示した資料館となっています。
能登半島の輪島にある「上時国家」は、祖先が800年前に能登に流された平時忠(元大納言)と伝えられています。その子孫は次第に統治能力を発揮してきたのでしょう。時代を経て江戸初期には豪農として天領の大庄屋となり、現在の建物は江戸後期に21代当主が、28年もかけて建造した格式高い大きな屋敷となっています。座敷の襖には、「丸に揚羽蝶(まるにあげはちょう)」の平家定紋が連なっています。
どのような時代になっても、文化は伝わり、その一翼を担う医学・医業は守られ続けて来ました。そこにはロマンが生きています。(潮 信輔)
- 登録日
- 2019年01月28日
- 更新日
- 2019年01月28日 14時 57分