名所旧跡:No.11 南禅寺 (京都紀行)
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五山文学の中心地
南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」といいます。
正応4年(1291)、亀山上皇が離宮を大明国師に与えて禅寺に改めたのが起こりです。室町時代は隆盛を極めていき、足利義満が相国寺を造ったので、南禅寺を京都五山の上に置き「五山之上」と言う禅宗寺院最高の寺格となり、境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並び、当時最も傑出した日本文化史上重要な役割を果した禅僧が歴代住持として住山し、五山文学の中心地として栄えました。
「絶景かな、絶景かな」
寛永5年(1628)、戦国大名・藤堂高虎が大阪夏の陣で亡くなった一族や家来の菩提を弔う為、山門(重文)を再建し寄進。高さ22mの壮大な楼門は日本一大きいことで知られており、その門前に建つ石燈篭も高さ6mを誇っています。
また、歌舞伎「山門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と大見得を切る舞台となった山門があることでも有名です。
方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、大方丈は御所清涼殿を、小方丈は伏見城殿舎を移築したと伝えられています。
大方丈の前庭は小堀遠州作の「虎の子渡し」と呼ばれ、樹木と石組を一ヵ所にまとめ広い余白が楽しめるようになっており、江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られております。また小方丈の襖絵の狩野探幽筆「水呑の虎」も有名です。
また南禅寺境内の奥には、煉瓦造りのアーチ「水路閣」があります。これは琵琶湖から京都へ流れる琵琶湖疎水の支流で、古代ローマの水道橋を参考に、明治20年(1887)に建造されました。
名 称/南禅寺(なんぜんじ)
所在地/京都市左京区南禅寺福地町