名所旧跡:No.111 三井三池鉱山跡 (歴史を感じる)
福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる「三井三池鉱山(炭鉱)」。
最初の発見は戦国時代の15世紀後半、農夫が薪集めの途中に稲荷山(現在の大浦町付近)で焚火をしていると、傍に転がっていた黒石に火が燃え移り「燃える石(石炭)」を発見したと伝わっています。
その後、江戸時代に入ると18世紀頃から藩営で採掘が行われ始められ(大浦坑開抗)、明治6年(1873)、三池炭鉱が明治政府の官営事業となり、囚人に坑内の業務に当たらせ、石炭は三井物産が取り扱うようになりました。この頃からは鉄道開通による内需以外にも英国や中国に輸出するほどで、採掘抗2番目となる七浦坑も開抗されました。そして明治21年(1888)には三井組(三井財閥)に払い下げられ、名称は「三井三池炭鉱」となります。
三井三池炭鉱となってから採掘は本格化。宮浦坑・勝立坑・宮原坑・万田坑・四山坑・三川坑・有明坑・三池坑と次々と開抗していきました。
戦後復興時の需要拡大と石油に切り替わる時代の中で
戦後復興で高度経済成長期に入り、暮らしの上でも電化が進んでいきました。石炭の出炭量も最盛期は650万tを超すほどで、正に日本の近代化に大きく寄与することとなりました。
しかし、石炭から石油へとエネルギー源が次第に変化し、石炭需要が下降し始めていたことから、昭和28年(1953)、三井鉱山の大量リストラに対抗して「英雄なき113日間の闘い」と後に称されるストライキが起き、三池労組は勝利し一躍その名を高めましたが、昭和35年(1960)の2度目の大量リストラに対抗した「三池闘争(三井三池争議)」といわれるストライキでは組合側の敗北に終わりました。
その後は大事故などもいくつかあり、需要は完全に石油に取って代わられ、ついに平成9年(1997)、三池炭鉱が閉鉱されました。
日本の近代化を支えた産業(工場等)、土木(橋・ダム・トンネル・鉄道等)などの遺産を評価する視点から、文化庁が1990年以降、全国の産業関連の遺跡等の調査をはじめ「近代化遺産」というカテゴリーを使うようになりました。
もちろんこの炭坑跡もその1つです。
名 称/三井三池鉱山跡(みついみいけこうざんあと)
所在地/万田抗跡地;熊本県荒尾市原万田
宮原抗跡地;福岡県大牟田市宮原町
ほか、大牟田市の各地と高田町