名所旧跡:No.118 錦帯橋 (先代の叡知)
「錦帯橋」の動画
「錦帯橋」(きんたいきょう)は日本を代表する木造橋で、日本三名橋のひとつ数えられています。五連の反り橋が特徴で、大正11年(1922)には国の名勝に指定されました。
その錦帯橋が創設されたのは江戸時代の延宝元年(1673)。この約330年前に架けられた橋は、頑丈な組木の技法により橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっており、その技術は現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われています。
材質は腐朽に強いとされるマツ、ヒノキ、ケヤキが中心で、橋の長さは約193mですが、橋面に沿うと長さは約210mとなります。(幅は約5mで、橋台の高さ約6m。)
橋が完成して以降の名称は、五龍橋、城門橋、龍雲橋など色々な呼び名がありましたが、宝永年間(1704年頃)以後は、文学的表現として「錦帯橋」と呼ばれ、定着しました。
モデルとなった中国・杭州の西湖にある「錦帯橋」
初代岩国藩主・吉川広家が岩国城を築城して以来の悩みの種は、城と城下町をつなぐ橋の洪水の度の流失。錦川には幾度となく橋が架けられましたが、増水時の激しさのためことごとく流失。流れない橋を架けるのが歴代藩主の切なる願いでありました。
病弱であった三代藩主・広嘉は、病気療養の際、明の帰化僧で医師でもある独立(どくりゅう)禅師(=戴曼公)の治療を受けます。明文化に関心のあった広嘉は、独立の所持する書物を一見し、「これだ!」とひらめいたそうです。
その書物『西湖遊覧誌』には、湖に点在する島伝いに石橋が架かる挿図がありました。これがヒントになり、延宝元年(1673)、錦川に小島の様な橋台を造り、そこに築城技術と組木の技法を最大限に生かした頑丈なアーチ型の橋を架け、希代の名橋が完成しました。
初代錦帯橋完成の8ヶ月後(延宝2年(1674))には洪水によって流失してしまいましたが、5ヶ月後の同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、276年間にわたり流されずにその姿を保ちました。
昭和に入ってから「国宝に」と推挙する動きもあったようですが、昭和25年(1950)9月のキジア台風により逆巻く洪水が錦帯橋を直撃し、流出してしましました。愛されていた錦帯橋は、市民の強い要望により流失の翌年から再建工事が始まり、2年の歳月を費やし、昭和28年(1953)1月に再建されました。
組み木の技法を生かした希代の名橋としてよみがえった錦帯橋は、優美なる姿を今も錦川の清流に映しています。
ちなみに本家である西湖の錦帯橋とは平成16年(2004)に姉妹橋となっています。
ちなみに架け替え工事は橋を造る技術を若い人に伝えていく意味を持つそうで、半世紀に一度行われるとか。
岩国市では現橋の保全のため昭和38年(1963)以降、5年ごとに橋の強度試験を実施しています。
平成10年度(1998)の強度試験では、橋体の強度は十分保たれているものの、接合部分に腐朽が検知されたため、架け替え工事が行われ平成16年(2004)に終了。
しかし平成17年(2005)9月6日〜7日の宮崎・大分・山口を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失したが、平成18年(2006)2月には再建を果たしています。
名 称/錦帯橋(きんたいきょう)
所在地/山口県岩国市岩国