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名所旧跡:No.119 水天宮 (古都を旅する)

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「情け有馬の水天宮」

水天宮は四柱の神(天御中主大神・安徳天皇・二位の尼・建礼門院)を祀り、水と子供を守護し、水難除け、農業、漁業、海運、水商売、また安産、子授け、子育てについての信仰があります。
 もとは九州・久留米の水天宮が総本山なのですが、久留米藩の第九代藩主・有馬頼徳公が、参勤交代中に参拝できないことを不便に思い、文政元年(1818)に久留米から分霊をして、江戸三田赤羽の藩邸(現在の東京都港区)に水天宮を祀りました。これが東京・水天宮のはじまりです。
 本来は、藩の屋敷神として祀られたもので、一般人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの間で噂は広まるとともに信仰は次第に高まり、ついには塀越しに賽銭を投げ込んで塀の外から参拝する人が現れるようになりました。あまりの人気に応え、5の日に限り開放され参拝が許されました。「情け有馬の水天宮」という言葉も生まれたほどでした。
 その後水天宮は、明治元年(1868)青山へ、明治4年(1871)赤坂へ、翌年の明治5年(1872)に、現在の日本橋蛎殻町に遷座しました。今日では広く開放されており、夫婦や妊婦、無事出産できた家族連れなどが、安産や子授かりの願掛けやお礼参りなど、たくさんの人が訪れています。

壇ノ浦の合戦後、平家に仕えた官女が祠を建てて

平清盛の血をひく安徳天皇は、元暦2年(1185)壇ノ浦の合戦で源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を投じられました。
 平家にお仕えしていた官女・按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州・筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、「お前は生きて、われらの霊を慰めよ」との命を受けたのでした。
 局は建久元年(1190)、鷺野(さぎの)に小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の創祀と伝えられています。
 その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に7000坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。久留米の水天宮が全国総本山なのです。

安徳天皇は御年わずか8歳で犠牲となって海中に沈まれましたが、世を憤ることもなかったので万民を救う尊い神慮によるとされ、水難よけの神として崇められるようになしました。
 昔から水中で禍をおこすといわれる河童が、水天宮のご神徳に服従し、除災招福の神使となっているともいわれ、別名を福太郎とも呼ばれている。
 カッパの面は、この伝承に基づくもので、これを鬼門にかければ魔除けとなり、商売繁昌のご利益もあると言われている。台所にかければ、家運繁栄、水難火災を防ぐともいわれています。

名 称/水天宮(すいてんぐう)
所在地/東京都中央区日本橋蛎殻町

「水天宮」には、29件の画像が登録されています。
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