名所旧跡:No.120 功山寺 (歴史を感じる)
「功山寺」の動画
鎌倉時代末の元応二年(1320)に建立された時には金山長福寺で、嘉暦2年(1327)に虚庵玄寂禅師(きょあんげんじゃくぜんし)が開山しました。
その後、慶長7年(1602)毛利秀元(元就の孫)が、お寺を盛り返したときに曹洞宗に転宗させ、慶安3年(1650)秀元は自分の法号をとって功山寺と改称しました。
功山寺仏殿は鎌倉時代末期の禅宗様式で、典型的な唐様仏殿としてはわが国最古で、国宝に指定されています(昭和28年(1953))。(二重屋根入母屋造りの檜皮葺き、弓形欄間、花頭窓、柱は上下部を細めた粽型で、礎石と柱の間に礎盤を入れるなどの特徴があります。)
山門は10代藩主・毛利匡芳によって安永2年(1773)に再建されました。
歴史の節目に2度名を残す寺
まず最初に起こった歴史の節目は、公卿政治から幕府政治への過渡期(戦国時代)です。
毛利元就に追われた大内義長は、兄がいる豊後へ逃げようとしましたが、弘治3年(1557)、功山寺にて元就の軍に包囲され、この仏殿で自刃したと言われています。
2度目は、幕政より王政復古へと移る明治維新前です。
当時の長州藩には倒幕を主張する“急進派”と“俗論派”がありました。この二つの派を倒幕にまとめるため、高杉晋作は元治元年(1864)12月15日、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊らわずか80人程度で、ここ功山寺に潜居していた三条実美(さんじょうさねとみ)ら五卿に向かい、「ただいまより長州男児の肝っ玉お見せし申す。」と、決意を表明し挙兵しました。この決起が後の明治維新の黎明を告げる警鐘となり、武士の時代を終わらせました。
高杉晋作ら約80人は、決起時に功山寺総門に無数の刀痕をつけたといわれていて、今もそのキズは総門にのこっています。
名 称/功山寺(こうざんじ)
所在地/山口県下関市長府川端
仏殿は国宝に指定されています。