名所旧跡:No.129 岡山城と岡山後楽園 (歴史を感じる)
南北朝争乱期の正平年間(1346〜70)に、岡山の地に城塞を構えた文献が残っていますが、この頃の石山城は守りの堅い館程度のものと推定されます。
元亀元年(1570)、戦国武将・宇喜多直家が石山城を手にし、居城とするため城の大改修の計画があったのですが、直家は領国平定のための合戦に明け暮れていたため、本格的な城郭の建設に着手できないまま天正9年(1581)石山城で没しました。
直家の後を継いだ秀家は、秀吉の庇護の下で成長。天下統一の合戦にも従軍し大名となり、天正18年(1590)、57万石にふさわしい新規築城と城下町整備に着手しました。
石山地区だけでは手狭であったため、新たに本丸を東隣の岡山地区に区域を拡げ構築。8年の工期を経た慶長2年(1597)、天守の竣工をもって完成。城は本丸のある岡山にちなんで「岡山城」と呼ばれ、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ばれるようになったそうです。
関ヶ原合戦後の岡山城主・小早川秀秋は、わずか1年10ヶ月という短い在城期間であったが、城と城下町の改造を積極的に行っている。次いで城主となった池田忠継は岡山城整備の総仕上げを実施。櫓門の改修や新規建築、本段の御殿に加え新たに表書院も設けてました。
三家による岡山城の建改築は、石垣の積み方によく表れています。宇喜多時代の「野面積」、小早川時代の「算木積」、池田時代の「打込萩」が見られます。中でも古式の野面積は、全国的にも珍しい貴重な文化遺産です。
当時は築城技術の発達が著しい時期で、岡山城は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城と並んで近世城郭の魁となりました。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もある名城です。
戦災で失った国宝
明治維新後は、御殿・櫓・門などの建物取り壊しや、堀の埋め立てが行われていきました。明治15年(1882)頃には、天守閣・石山門・月見櫓・西之丸西手櫓を残すのみとなり、かつての巨城の姿も次第に忘れられていきました。
そして昭和になって残っていた天守閣など4棟の建物は相次いで国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)6月29日、米空軍による岡山大空襲により、天守閣・石山門は全焼。岡山城はついにシンボルまでも失ってしまいました。
昭和35年(1960)、旧藩士を中心に岡山城再建期成同盟会が結成され、昭和39年(1964)着工、2年後の昭和41年11月、外観はほぼ旧状どおりに復元されました。
岡山城の背後を防衛する目的で築かれたと言われる「後楽園」は、天然の濠「旭川」の対岸(天守閣の北側)にあります。
池田綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて元禄13年(1700)に造営した林泉回遊式の大名庭園は、当時「御後園」「御茶屋」「御菜園場」などと呼ばれていて、藩主の好みや使い勝手に応じて度々改修が加えられたそうです。
明治4年(1871)になって一般に公開され、名称を「後楽園」と改称。後楽園は地方では希にみる名園で、海外に誇りうる大名園として昭和27年(1952)特別名勝に指定され「日本三名園」の一つとされています。
名 称/岡山城と岡山後楽園(おかやまじょうとおかやまこうらくえん)
所在地/岡山城;岡山県岡山市丸の内
岡山後楽園;岡山県岡山市後楽園