名所旧跡:No.134 山鹿・八千代座 (古都を旅する)
「山鹿・八千代座」の動画
明治43年(1910)、商工業で栄えた山鹿の「旦那衆」と呼ばれる実業家たちが八千代座組合を創設し、一株参拾円の株を購入し建てた芝居小屋です。
その八千代座の設計・工事監督をしたのは、灯籠師で回船問屋の主人でもあった木村亀太郎氏でした。建築には素人でしたが、研究熱心で東京の歌舞伎座や各地を見学、さらには上海に渡り洋式工法の長所も取り入れました。
こけら落としは翌年の明治44年(1911)、歌舞伎の松嶋屋総勢91人による興業でした。
入場するとまず驚かされたのは天井。天井には極彩色に彩られた広告画と、真鍮製の巨大シャンデリア(ガス灯)が吊されています。
舞台が始まると、役者と大道具をのせて回る「回り舞台」。花道脇のせり上がり床(スッポン)から飛び出す役者。どれも観客の予想を超えた演出に魅了され、拍手と歓声にわいていました。そんな演出の陰で、舞台下(奈落)では人力で舞台をまわし、スッポンを持ち上げる裏方さんの力仕事の支えがあると、気に掛ける人は少なかった事でしょう。
こうして八千代座は大正から昭和初期にかけて、当代一流といわれる芸能人の熱演を、多くの人々の心に深く刻み込んできました。
かつての歓声が、また響き渡る芝居小屋に
しかし太平洋戦争開戦後、金属供出で真鍮製の巨大シャンデリアが取り外されてしまいます。
戦後も昭和40年代になると、テレビの普及などにより庶民の娯楽が多様化し、八千代座は時の流れの中に取り残されていきます。閉鎖状態が続き老朽化が進む芝居小屋。廃屋同然で朽ちかけていく八千代座に一番心を痛めたのは、八千代座での数多くの思い出をもっているお年寄りでした。
老人会は、「瓦一枚運動」で募金を募り、5万枚の屋根瓦を修復。この運動に刺激を受けた若者も、復興へ向けての様々な活動を始めました。そして昭和63年(1988)、国重要文化財に指定されました。
平成2年(1990)からは、市民の手づくりで行われる「坂東玉三郎舞踊公演」が定期的に開催されるようになり、八千代座の名前を全国に広めることになりました。
平成8年(1996)より大修復・復元が始まり平成13年(2001)完了。真鍮製の巨大シャンデリアも電化して、約60年ぶりに再現されました。
八千代座の斜め向かいには、八千代座の資料館「夢小蔵」があります。
明治20年(1887)、住宅兼倉庫として建てられたものを再利用。白壁土蔵造り2階建ての建物の中には、八千代座の歴史をたどる資料や、実際に舞台で使用されたユニークな小道具が数多く展示してありました。
名 称/八千代座(やちよざ)
所在地/熊本県山鹿市山鹿
【国指定重要文化財】