名所旧跡:No.136 弘前城 (歴史を感じる)
「弘前城」の動画
明治維新後の廃藩置県で、全国の名城が取り壊される中、築城形態を遺す城跡として保存されているのは、全国でも類例が少なく極めて重要視されています。
明治27年(1894)旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として一般開放するため、城地の貸与を願い出て、翌年の明治28年(1895)、約49ヘクタールの弘前公園として市民に一般開放され、明治末期ごろ市民から桜の寄贈が盛んになり“桜の弘前公園”の基礎を築いたといわれています。
築城から約400年を経てもなお天守、櫓、城門など、藩政時代を今に伝える多くの重要文化財があります。城跡は国指定史跡(昭和27年(1952年)指定)で、現存する建造物全てが国の重要文化財として保存されています(昭和25年(1950)に一部指定、昭和28年(1953)に全て指定)。
天守の再建まで約200年
天正年間(1573〜1592)、南部領であった津軽の地を統一したのは大浦為信で、為信は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、津軽一円の本領安堵を得て、姓も津軽と改称し、居城であった大浦城、堀越城の二城が狭小なことと、軍事に不向きであることから、慶長8年(1603)、幕府の許可を得て鷹岡を築地として選び、築城工事に着手しました。
しかし、慶長9年(1604)、津軽為信は京都にて客死し、築城は中断してしまいました。
家督を継いだ信枚(為信の三男)は、二代藩主となり築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を使用し、急ピッチでの築城を行い、慶長16年(1611)に華麗な5層の天守を持つ鷹岡城(のちの弘前城)が完成しました。総面積約38m²に及ぶ巨城は4万7千石の大名には豪華すぎる居城でした。
しかし寛永4年(1627)落雷で焼失、5層の天守は壮烈な崩壊をとげてしまいました。そこで再建しようとしましたが、「一国一城令」で5層の天守を禁じていたため、以後200年近く天守の無い時代が続きました。
文化7年(1810)9代藩主・津軽寧親は、3層櫓を新築すると幕府に願い出て、本丸東南隅櫓を改築して3層の天守が築かれ、ようやく再建を果たしました。
12代続いた津軽氏の禄高は、文化5年(1808)に表高10万石という記録があるそうですが、実高は開墾の成果により、30万石以上の身代であったそうです。
名 称/弘前城(ひろさきじょう)
別 名/鷹岡城
所在地/青森県弘前市下白銀町