名所旧跡:No.139 掛川城 (歴史を感じる)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉から掛川城主を命ぜられた山内一豊が、掛川城に入城し大規模な城郭修築を行いました。
このときはじめて掛川城に天守閣が築かれ、大手門の建設と共に城下町の整備を行いました(慶長元年(1596))。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、城主・山内一豊は西上する徳川軍に城を開放。この功によって戦後、掛川6万石から土佐一国24万石へ栄転しました。
その後の城主には徳川譜代の大名が担い、松平家、朝倉家、青山家、本多家、北条家、井伊家、小笠原家とめまぐるしく城主が変わりましたが、延享3年(1746)旧江戸城を築いた太田道潅の子孫の太田家が任じられ、明治維新までの約120年間藩政を司りました。
一豊が最初に造った天守は、慶長9年(1604)の大地震で大破しましたが、元和7年(1621)に再建。それから230年余り経って起きた嘉永東海地震(嘉永7年(1854年))により、大半の建物と共に再度倒壊してしまいました。その後は天守の再建が行われることなく遺構が残るのみでした。
時は流れ平成5年(1993)、市民と地元企業の寄付により、日本で初めて天守閣が本格的木造建築で再建され、平成7年(1995)には大手門も復元されました。(樹齢300年を越える青森ヒバが使用されたそうです。)
山内一豊が入城する以前は…
応永年間(1394〜1427)にこの地の豪族・鶴見氏が砦を築いたのが始まりと伝えられています。
掛川城は、室町時代に駿河の守護大名・今川義忠が遠江支配の拠点として、筆頭家老の朝比奈泰熙に命じて文明年間(1469〜1485)に築城したと伝えられています。その後も朝比奈氏が三代にわたり約100年間この地を統治していました。
しかし朝比奈泰朝の代に、主家である今川義元が永禄3年(1560)、桶狭間で織田信長に討たれ、今川家は陥落の道を辿り始めました。
永禄11年(1568)、義元を継いだ今川氏真が、甲斐国府中・武田信玄、三河国岡崎・徳川家康の挟み撃ちに遭い、氏真は本拠地の駿府城を捨て、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びていきました。この翌年、掛川城は徳川勢の包囲に遭い、和議で氏真の身の無事を条件に泰朝は開城を決断しました。
安土桃山時代、家康は対武田防御の拠点として、家康の重臣・石川家成を城主としていましたが、天正18年(1590年)、家康が駿府城から江戸城に移転すると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が6万石の城主となりました。
掛川城御殿も嘉永7年(1854)の大地震で被害を受け倒壊したため、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建された。
この御殿は、全国で数ヶ所にしか残っていない貴重なもので、昭和55年(1980)に国の重要文化財に指定されました。
名 称/掛川城(かけがわじょう)
別 名/雲霧城、松尾城
所在地/静岡県掛川市掛川
遺 構/復元天守、櫓、門、御殿、曲輪