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名所旧跡:No.140 松山城 (歴史を感じる)

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道後平野の中心・勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城

松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名になった「七本槍」の一人・加藤嘉明が、関ヶ原の戦いで功をあげて伊予半国22万石を得て築城に着手しました(慶長7年(1602))。しかし寛永4年(1627)、松山城完成目前で嘉明は会津若松城に転封。嘉明は松山城完成を見ることなく会津に移りました。
 加藤嘉明に代わって蒲生忠知が城主となり二之丸が完成。25年の歳月をかけて築いた松山城は、勝山山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸を整備した広大な規模で、門櫓・塀を多数備え、石落とし・高石垣などを巧に配した攻守の機能に優れています。(今日でも松山城は、日本一の連立式平山城と言われています。)
 その後、寛永11年(1634)忠知は病没し継子がなく断絶。翌寛永12年(1635)、徳川家親藩大名の松平定行が城主となり、明治維新に至るまで松山城は松平家の居城として続きました。

幕末期に再建された天守閣

定行は寛永16年(1639)、幕府の許可を得て天守の改築にとりかかり、寛永19年(1642)に五層であったものを三層に変えました。
 そして天明4年(1784)、落雷により天守閣をはじめ多くの建物を焼失。藩の財政上の理由などにより、なかなか再建計画は立たずに時は流れ、文政3年(1820)から35年の歳月をかけて、幕末期の安政元年(1854)に再建され現在に至っています。
 したがって松山城天守は城郭建築史における最末期の建造物ということになります。
 その後、松山城は明治6年(1873)の廃城令を免れましたが、明治3年(1870)〜昭和20年(1945)の間に、放火や大戦の空襲により小天守閣・櫓・門などを焼失。(天守閣は無事。)
 昭和33年(1958)以降、失われた門や櫓が次々復元され現在に至っています。

昭和10年(1935)にに国の重要文化財に指定され、昭和27年(1952)には国の史跡に指定されました。
 昭和30年(1955)にロープウェイ、昭和43年(1968)には登山リフトがそれぞれ設置され、松山市を代表する観光地となりました。
 また、本丸広場は桜の名所で市民の憩いの場となっています。

名 称/松山城(まつやまじょう)
別 名/金亀城、勝山城
所在地/愛媛県松山市丸の内
遺 構/天守閣、櫓、門など
    【国指定重要文化財および国指定史跡】

「松山城」には、116件の画像が登録されています。
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