名所旧跡:No.141 人吉城跡 (歴史を感じる)
相良氏は、鎌倉時代の元久2年(1205)から代々人吉を領し、明治まで続いた極めて希な領主です。
それまでの人吉は平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が治めていましたが、遠州で源頼朝に仕えていた相良氏の第2代当主・相良長頼が、この地に地頭として赴き、統治していくようになりました。
赴いた長頼は、主馬佑の城を拡張し、室町時代には原城と呼ばれる城を人吉城跡東南の台地上に築き、空堀や堀切によって守る山城を築きました。
そして相良氏は芦北郡一円を支配するまで勢力を拡大。名だたる戦国大名にのし上がり、第18代当主・相良義陽は天正年間(1573〜1593間)に人吉城の大改築を始め、城の近代化に着手しました。
大改築の途中第20代当主・頼房は、天正15年(1587)秀吉の九州征伐時に臣従したり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いもあり、度々改修の中断はしましたが、第21代当主・頼寛の寛永16年(1639年)、城の北側に球磨川、西側には胸川を天然の堀とし、東と南は丘陵の断崖に堀をめぐらせた要害堅固な近代城郭に生まれ変わしました。
他に類を見ない遺構
堀合門脇からは「武者返し」と呼ばれる石垣が続いています。熊本城の「武者返し」は石垣の下部はゆるやかな傾斜で、上部に向かうほど急な角度になる独特の造りですが、人吉城の「武者返し」は最上部が外側に張り出したこの石垣は幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれた人吉城独特の石垣です。
また、水の手門跡近くに重さ31t、高さ2mの「左近の石」と呼ばれる巨大な石。実は球磨川の中に置かれていた石で、かつての橋は増水の度に橋が壊れていたため、家老の村上左近の進言によって中州が流出しないように沈められた多数の巨岩の一つだそうです。
(昭和43年(1968)の河川改修工事時に現在の場所に移されました。)
享和2年(1802年)に起きた城内での火事で城の一部を失い、文久2年(1862)の城下町・鍛冶屋からの出火(「寅助火事」と呼ばれる大火)により、城は全焼してしまいました。その後、一部の建物が再建されましたが、明治4年(1871)の廃藩置県により廃城。そして明治10年(1877)に起きた西南戦争では、西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。この際に幕末に再建された建造物も全焼し、石垣だけが残るのみとなりました。
その後、城跡は人吉城公園として整備され、昭和36年(1961)、国の史跡に指定。平成元年(1989)隅櫓が復元。平成5年(1993)には大手門脇多聞櫓と続塀が復元されました。
名 称/人吉城(ひとよしじょう)
別 名/繊月城、三日月城
所在地/熊本県人吉市麓町
遺 構/曲輪、復元櫓、石垣、土塁、堀
【国指定史跡】