名所旧跡:No.145 円形分水(大分・竹田) (先代の叡知)
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岡藩の家臣・須賀勘助は元禄6年(1693)に藩の財政立て直しを図るため、藩の南部地区一帯に水路を張り巡らせ、開墾する計画を立てました。当時はノミと槌で行う難工事。しかも水路橋を架けるといった大規模なものでしたが、幾多の困難を乗り越えて完成しました。
しかし完成後まもなく、暴風雨による水害で壊滅。復旧のメドもたたず、これまでの労力と財政負担の責任をとる形で、勘助は自刃したそうです。
それから時は流れ明治に入って、元、岡藩士・井上藤蔵と百木宮砥の村人・熊谷桃三郎が勘助の無念を知り、明治17年(1884)には水路工事の着工にこぎつけました。しかし約200年経った明治の文明をもってしても難工事には変わらず、費用は予算以上に膨らみ、私財を投じてまでも工事は継続されましたが、ついに破綻し工事は中断していましました。
しかし桃三郎は地元で協力者を募って、なんとか工事再開を果たし、明治25年(1892)についに完成し、農業事情は好転しました。
不公平なく水を分ける合理的な方法
次に待ちかまえていた問題は水の利権問題でした。田植えの頃には騒動が絶えなかったといいます。
明治25年(1892)の通水時にはここから3本の水路により、水を分け合ってしましたが、どうしても偏りがあったのでしょう。
そこで昭和9年(1934)にサイフォンの原理で水を沸き上がらせ、均等割した20の小窓からそれぞれ同じ量の水が流れる『円形分水』を設けました。
作付け面積にあわせ、1本の水路には8窓、2本目には7窓、3本目には5窓が割り当てられ、適正な分配ができるようになりました。
もちろんその後は水争いは起こらず、現在に至っても円形分水ではこんこんと水が汲み上げられていました。
C級近代土木遺産に指定されている円形分水は、別名『音無井路十二号分水』とも呼ばれています。
この地区に12個以上も円形分水があるのかと想像もしましたが、“十二号”というのは「川から円形分水まで(約2km)の間に、12ヶ所の廃土搬出口があるから」ということだそうです。
名 称/円形分水(えんけいぶんすい)
別 名/音無井路十二号分水(おとなしいろじゅうにごうぶんすい)
所在地/大分県竹田市九重野百木の宮砥地区