名所旧跡:No.152 高知城 (歴史を感じる)
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南北朝の頃、豪族大高坂山松王丸が大高坂山の地に砦ほどの城を造り、北朝方と戦ったが落城。そののちは廃城になっていた。
室町時代からは長宗我部氏がこの地を治めていました。天正19年(1591)、長宗我部元親は、岡豊城から大高坂山の地に移るため築城しようとしましたが、鏡川と江の口川に挟まれた中州状の地帯で、しかも現在よりも海が近く難工事となり断念、桂浜に近い浦戸に築城しました。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦で西軍に属した長宗我部元親の子・盛親は、戦後領地没収され、翌年替わって山内一豊が遠州掛川から一躍土佐一国二十万石の太守に抜擢され、盛親の居城だった浦戸城に入城しました。しかし一豊は、浦戸城が海辺に片寄ってたことを案じて、慶長6年(1601)、廃城となっていた北方の大高坂山に新しく築城を開始。元親を悩ませた鏡川と江の口川を一豊は治水工事をし、城下町の整備や城の外堀として利用しました。
そして城の大部分ができた頃の慶長8年(1603)に一豊は入城しました。その後も建築は続き、慶長16年(1611)、二代藩主忠義の時に全城郭が完成しました。
南海道随一の名城
高知城天守は最上層に廻縁高欄がついており、「咸臨閣」という別称を持ち国の重要文化財に指定されいます。ちなみに四層とも五層とも見えるますが、内部は六階あります。また天守には珍しく御殿(懐徳館)もあります。
しかし創建時のものは、享保12年(1727)城下町の大火から、追手門以外の城郭のほとんどを焼失しましたが、宝暦3年(1753)までに創建当時の姿のまま再建されました。
その後も、自然災害や明治維新後の廃城運動、太平洋戦争などの危機を乗り越え、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を今も残しています。
大高坂山は慶長8年(1603)、真如寺の僧・在川(ざいせん)によって河中(かちゅう)山と改名されました。それにならって城も河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
河中とは、本来「二つの川の間にある山」ほどの意味だったのですが、前述の通りこの城の周囲が慢性的な水害に悩まされ続けたことから、「河中」という文字が忌み嫌われ、慶長15年(1610)には竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)が新たに「高智山」と改名し、城も「高智山城」と改名しました。
後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、地名も高知と呼称されるようになったそうです。
名 称/高知城(こうちじょう)
所在地/高知県高知市丸ノ内
形 式/平山城
遺 構/現存天守、御殿、櫓、門、石垣、堀
別 名/大高坂山城、鷹城