名所旧跡:No.153 安並水車の里 (先代の叡知)
「安並水車の里」の動画
藩政時代、土佐藩家老・野中兼山が、四万十川の支流・後川から、周囲の四村(秋田・安並・佐岡・古津賀)へ水を引くために「四ヶ村溝」(長さ160m、巾11m)と、水車を造りました。
それから約350年経った今日でも、のどかな田園風景に「カッタン、コットン」と大小10数基の水車が回っています。
残念ながら、水田に水を汲み上げている水車は現在数基しかなく、観光用に設置された水車が地元の方たちの管理により、3月中旬〜9月下旬の間、回っています。
野中兼山とは
野中兼山(のなかけんざん)本名は良継(よしつぐ)。元和元年(1615)〜寛文3年(1663)。南学の儒者であり、殖産興業を実践した先駆的な政治家です。
父は初代土佐藩主・山内一豊の家老でしたが、兼山が4歳のとき父と死別。その後、父の従兄弟である野中直継の養子となり、直継の娘を妻としました。
寛永8年(1631)18歳の時、養父と同じ奉行職となり、寛永13年(1636)養父の直継が亡くなり、その後を継いで奉行となります。当時の藩主は二代藩主山内忠義で、兼山は忠義に藩政改革を命じられ、次々にその手腕を発揮させていきました。
兼山は「土木神の化身」と呼ばれるほどの土木工事を行いました。八田堰、山田堰などの堰及び用水路の建設による新田開発や、日本最初の掘り込み港湾「手結内港」をはじめ、津呂港、室津港などを手がけ、防波堤や波止場を作り、漁港の機能を回復させていったそうです。
また兼山は、捕鯨、アサリの繁殖、ミツバチの導入、林業においては山林経営の基となったサイクル方式の「輪伐制」を導入、紙・茶などの専売制など財政強化にあたったそうです。
名 称/安並水車の里(やすなみすいしゃのさと)
所在地/高知県四万十市安並