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名所旧跡:No.35 名古屋城 (歴史を感じる)

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「清洲越し」で名古屋を発展させた徳川家

16世紀前半、今川氏親が尾張進出のために築いたと云われる柳ノ丸が最初で、名古屋城二の丸あたりにあったと考えられています。
 天文元年(1532)、織田信秀が今川氏豊から奪取し「那古野城」し、その子織田信長の居城となったが、弘治元年(1555)信長が清須城に本拠を移し廃城とされました。
 慶長15年(1610)、徳川家康が九男・義直のため、また大阪へ睨みをきかせるため、外様大名20家に命じて築城に着手。天守台を加藤清正が、建物は小堀遠州が担当し、僅か4年の歳月で悌郭式の平城を慶長19年(1614)に完成させました。
 また、織田家ゆかりの清洲から「清洲越し」と言われているように町ごと移住し、御三家筆頭「尾張徳川家」62万石の城下町として発展していきました。
 徳川家の威光を表すためのものとして、天守閣には燦然と輝く「金のシャチホコ」を鎮座させた。以後16代にわたり拡張工事が繰り返しなされ、高さでは江戸城や大阪城に及ばないが、延べ床面積では史上最大で、姫路城の倍以上もある日本一大きい天守閣となりました。

惜しくも戦災で焼失した旧国宝

明治維新後、幸いにも明治6年(1873)の「廃城令」に関わらず取壊しを免れ、旧国宝31件をはじめ、多数の建造物が城内を埋め尽くし、歴史的にも文化的にも貴重な遺産を残していました。
 明治24年(1891)には、推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えましたが、昭和20年(1945)5月14日、米陸軍のB-29による焼夷弾により天守閣を含むほとんどを焼失してしまいました。
 現在残る6棟(本丸辰巳隅櫓、同未申隅櫓、同南二之門、旧二の丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二の丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓)は、すべて重要文化財に指定されています。
 昭和34年(1959)、天守閣は小天守や正門とともに鉄筋コンクリート造りで復興再建されました。

初めて作られた金鯱は、一対で慶長大判1940枚分の金を使用。約320kgもありました。
 その後の藩財政の悪化。三度にわたり金箔の改鋳を行って金純度を下げ続けたました。そのせいで金鯱の光沢はかなり鈍ってしまい、そのことを隠すため金鯱の周りを金網で囲い、目立たないようにしていました。
 戦後の被弾した金鯱の残骸は、GHQに接収され、のち大蔵省に移りましたが、昭和42年(1967)に名古屋市に返還。市は残骸から金を取り出し、市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存しているそうです。
 現在の金鯱は大阪造幣局で復元されたもので、一対に使用された金の重量は88kgで、約400年かけた4分の1ダイエットというわけですね。

名 称/名古屋城(なごやじょう)
所在地/愛知県名古屋市中区本丸
形 式/平城
遺 構/復元天守閣、櫓、門、石垣、堀
別 名/金鯱城、蓬左城、楊柳城、柳ヶ城、亀尾城、鶴ヶ城、金城
「日本3名城」の一つ 

「名古屋城」には、139件の画像が登録されています。
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