名所旧跡:No.44 大宰府政庁趾と水城跡 (筑紫野紀行)
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唐や新羅の侵略防衛拠点だった大宰府政庁
大宰府(おおいみこともちのつかさ)が、この地に置かれたのは7世紀初めといわれ、「日本書紀」によると「筑紫大宰」と呼ばれていたようです。
白村江の戦いの翌年(天智4年(664))には、筑紫・壱岐・対馬に防人を置き、筑紫大宰から約1.5kmの場所に防衛戦としての土塁「水城」をつくりました。
そして大宰府は大宝律令(大宝元年(701))施行により、九州全域を治める政府機関となり「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれるようななりました。
まほろばの里の繁栄と衰退
天智天皇(中大兄皇子)は、全国数百カ所に平城京をモデルとした大宰府(役所)を創り、日本全国を統治していました。
その後、多くの大宰府は時代変動と共に姿を消しましたが、この筑紫大宰「大宰府政庁」は、九州の政治・文化・外交・軍事防衛の中心として永く栄えました。
しかし天慶3年(940)、藤原純友の乱で大宰府政庁は消失してしました。
「太宰府」は、地方名や固有名詞に使われ、「大宰府」は、その当時の国の出先機関を意味するようです。
大宰府は、今も尚、地名としても跡地としても残っているのが、福岡県太宰府市だけです。
つまり大宰府があったから太宰府とついた名前なのです。
名 称/大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)
所在地/福岡県太宰府市観世音寺
名 称/水城跡(みずきあと)
所在地/福岡県太宰府市国分