名所旧跡:No.52 鶴丸城址 (歴史を感じる)
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人をもって城と成す
1602(慶長7)年に初代薩摩藩主・島津家久(忠恒)の命によって築城をし、2年後に完成したといいます。この城の形が翼を広げた鶴に似ていたことが名称の由来だとか。。
「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくった天守閣のない質素な屋形でした。が、藩内には100余りの外城を築き、領内全体で防御を固めるという、全国でも類を見ない体制を整えていたため、堅固な造りの天守閣は必要がなかったと考えられています。また、徳川家に対する配慮で天守を造らなかったという説もあります。
元和元年(1615)の「一国一城令」によって外城の建物は形式的に取り壊されました。
西南戦争の石垣
そして明治6年(1873)本丸が焼失、明治10年(1877)、西南戦争開戦直前の大火で二の丸は焼失しました。そしてこの地が西南戦争最後の激戦の舞台となり、西郷隆盛の自刀、西郷軍の大敗により西南戦争は終結しました。
今もなお石垣には、西南戦争時の弾痕跡が至る所に残っていました。
城跡地には、昭和58年(1983)に鹿児島県歴史資料センター「黎明館」が建てられました。ここには鹿児島に関する貴重な史料が多数収められいます。
名 称/鶴丸城址(つるまるじょうし)
所在地/鹿児島県鹿児島市城山町
形 式/平山城
遺 構/石垣、堀
別 名/鹿児島城