名所旧跡:No.55 飫肥城址 (歴史を感じる)
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島津家と伊東家の壮絶な覇権の奪い合いの末に
築城に関しては定かではなく諸説存在するが、「南北朝時代の正平年間(1346〜1369)に土持氏の築城。」という説が、一般的に知られています。
戦国時代には、島津家と伊東家が飫肥をめぐって、覇権の奪い合いが約80年続き、天正15年(1587)、秀吉より伊東祐兵が飫肥5万1千石を与えられました。
こののち、伊東家は14代にわたって、明治維新を迎えるまでの約280年間、飫肥を治めました。
樹齢100年を超す「飫肥杉」を使った復元
廃藩置県(明治4年(1871))による取り壊しののち、昭和後期に文化的価値が認められるようになり、昭和53年(1978)に大手門が復元。翌年(昭和54年(1979))には松尾の丸が復元されました。
鯉が泳ぐ町・飫肥は「九州の小京都」ともいわれ、当時を偲ばせる武家屋敷や、明治維新後の伊東家の住居「豫章館」、日露戦争終結の「ポーツマス条約」で有名な飫肥出身、小村寿太郎の「小村記念館」など見所もたくさんあります。
名称/飫肥城址(おびじょうし)
所在地/宮崎県日南市飫肥4231
形式/平山城
遺構/曲輪、復元櫓門、門、書院、城壁、石垣、堀
別名/舞鶴城