名所旧跡:No.97 竈門神社 (四季を感じて)
竃門神社(別称宝満宮)は太宰府市の宝満山頂にある神社で、縁結び・方除・厄除の神様として知られています。
日子波瀲武鵜葦草葦不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の妻で、神武天皇の御生母でもある『玉依姫命(たまよりひめ)』を主祭神とし、相殿に神功皇后と応神天皇が祀ってあります。
664年に大宰府が設置されたとき、竃門山(現:宝満山)の麓で鬼門除けの祭祀が行われ、673年に心蓮上人(しんれんしょうにん)が山中で修行中に玉依姫命が現れたとされることにより、朝廷によって社殿が建てられたのが始まりです。これが竈門神社の創建となります。
その宝満山の山頂に上宮、8合目に中宮、山裾に下宮が建てられ、上宮付近の巨岩の下からは皇朝銭、奈良三彩など、奈良時代から平安初期の国家的な祭祀が行なわれていたことを示す数々の品が出土し、ある時は大宰府の平安を願って祭祀が行なわれ、またある時は遣唐使渡航安全や外敵からの守護が祈られていたようです。
竃門山寺は古代・中世にわたって九州の代表的な寺院でしたが、室町時代以降の戦乱で衰退。戦国時代に入って社殿は度々の兵火に焼かれましたが、江戸時代になると、黒田長政が筑前藩主となって再築されました。その後の歴代藩主も信仰が厚く、堂社や什器の寄進・修復を行い、次第に復興に向かったのです。
しかし、明治の神仏分離・廃仏毀釈により、仏教色の強い竃門山寺は建物のほぼ全てが破壊され(山中に石仏や堂跡が残る)、わずかに残った一つの社殿(下宮)が村社・竃門神社として残されました。
その後、祭神が神武天皇の母神の玉依姫命であり、かつての式内社、九州総鎮守であったことなどから、明治28年(1895)、官幣小社に昇格。現在の社殿は昭和6年(1931)に造営されたものです。
信仰の山
最澄は瀬戸内海で暴風雨に遭い、難破した遣唐船の修理を待つ間の約一年間を筑紫で過ごし、延暦22年(803)この山に参籠して薬師仏4体を彫って竈門神に入唐求法、航海の安全を祈りました。
それ以後、高僧の往来が盛んで平安時代末から鎌倉時代には、麓の村に学問を主に行った宗徒方300坊、修行を主に行った行者方70坊の坊舎があったと伝えられ、優れた宗教文化が華開いたのでした。
元寇の際にはここに小弐氏によって有智山城が築かれ、竈門神社に戦勝祈願がなされ、江戸時代になってからは、25坊の山伏達が峰入りの修業をしたり、加持祈祷を行い人々の災いを祓いました。この頃には、良縁を願っての十六まいり等、庶民の登拝が盛んになり、宝満山は信仰の山として人々の心に浸透していきました。
しかし国の政策による神仏分離によって仏教的なものが全て廃された明治初期には、山伏達はこの山を去ったのです。
そして現在は、四季折々の彩りに導かれるように人が集まる、桜名所・紅葉名所でもあります。
縁結び・方除・厄除の神としての信仰も厚く、四季を通じて宝満山に登拝する人々の心身修練の場として、多くの人々に親しまれています。
また、五家荘“平家の里”のご好意により寄贈された鹿が住む「神鹿園」もあります。
名 称/竈門神社(かまどじんじゃ)
所在地/福岡県太宰府市内山