名所旧跡:No.86 元寇防塁 (歴史を感じる)
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「元寇防塁」の動画
国も違えば工法も違う 当時は石築地と呼ばれた防塁
文永11年(1274)「文永の役」で、フビライ・ハン率いる蒙古・高麗軍が日本に襲来しました。蒙古軍優勢の中なんとか追い払ったものの、博多の町は焼き払われ大きな被害に遭いました。
再度の来襲に備え、鎌倉幕府の執権・北条時宗は九州諸国の御家人に命じ、建治2年(1276年)「元寇防塁」を博多湾岸約20kmにわたり、高さ約2〜3m、厚さ約2.5mもの石塁を、わずが半年余りで完成させたと云います。
突貫工事であったため地区(担当した国)によって、石の大きさも違えば積み上げ方も違っていました。当然といえば当然のことですね。
備えあれば憂いなし
防塁完成5年後の弘安4年(1281)、日本は再び蒙古軍14万人の侵攻に見舞われました。(弘安の役)
しかし今回は防塁が蒙古軍を阻み上陸させませんでした。
また、暴風雨(台風?)で蒙古軍の多くが壊滅し、日本は守られました。
その後は蒙古軍の内乱などもあり、侵攻されることはなくなりました。
いまでは土砂などで埋まり、防塁の上の方が僅かに見える程度で、防風林が取り囲んでいます。
現存する防塁としては、西区今津、西区今宿、西区生の松原、西区姪浜、早良区西新、中央区地行、東区箱崎の7地区で、なかでも「今津防塁」「生の松原防塁」「西新防塁」が有名です。
名 称/元寇防塁(げんこうぼうるい)
所在地/福岡県福岡市の各地